プロフィール&ストーリー

衣川 智恵美(きぬがわ ちえみ)

京都府生まれ山々に囲まれ緑豊かなところで育つ

保育士として保育園で17年働いたのち

福祉事務所にて母子父子(ひとり親)自立支援員としてひとり親の心の悩み・モラハラ・DV・離婚・就労・夫婦関係・子育て等生活の様々な悩み相談や障害児の親の相談を年間600件受ける。

 

「おてんば娘の幼少期」と保育士への道

4人弟妹の長女として生まれました。

長女という立場と妹が赤ちゃんの時に顔面を重症の火傷を負ってしまったため、

片道3時間かかる大学病院に通院し、毎年1回の手術のために入院を繰り返し、

妹が入院中は、弟と2人,祖母と従兄姉の母と従兄姉が住む家に預けられ生活をしていました。

甘えたくても甘えられずおてんば娘ですが寂しい思いをしていつも心がもやもやとして

学校では、落ち着きがないというような子でした。

 

子どもの頃の遊びと言えば、山を駆け巡ったり、木登りしたり、

髪もツインテールにしてキャンデーキャンデーのキャンデーというイメージです。

小5の時、下の妹が生まれ学校から帰ると妹の世話をすることで、子育ての楽しさを覚えました。

そのころ、従姉が保育科のある高校に進学し保母(保育士)になり保母さんになることに夢を持つようになりました。

「保母さんのなるんだと努力した高校時代」

高校は、従姉が卒業した保育科のある高校に進学する。

高卒では保母さんになるには、国家試験に合格しないといけないが、ピアノが必須になってくる

でも、家にはオルガンはあるけどピアノはない。

そんな、高価なピアノは買ってもらえない。

電車通学で、一本早い電車に乗り学校に行き30分間練習をしてました。

もともと、学校の成績は、1・2・1・2と足踏みしマーチの行進でしたが、

高校に進学しいろいろなことに自信が持てるようになりすべての成績が良くなりました。

しかしながら、国家試験の記述試験は、合格したもののピアノを含む実技試験に不合格になってしまいました。。

 

「保母さんの夢は捨てきれない、ならば幼稚園教諭の資格も取ろうと進んだ短大時代」

保母さんになる夢は、捨てきれず働きながら短期大学に行ける3部のある短期大学に進学することに。

朝、6時から仕事をして午後学校に行く、次の週は午前中、学校に行き午後10時まで仕事をすることをひたすら3年間繰り返す生活を送りました。

夢を実現するためにピアノのレッスンも2週間に1回通いました。

 

「現役で公務員試験合格し保母さんとしてスタートする」

公務員試験が受かり、夢かない公立保育園の保母さんとして働くことができました。

毎日、子どもたちに囲まて楽しい毎日を過ごす夢のような楽しい仕事ができ、仕事が生きがいになりました。

そんな時、病魔に襲われ保育園保母としての仕事を断念することに。

 

「保育士の資格を活かし、子育て相談の仕事をする」

病魔に襲われ役所の内勤となる。

しかし、事務したことないため挫折ばかりの日々

しかし、窓口業務は福祉全般の仕事で高校時代から学んだことを

活かし笑顔の良さで、お客さんから信頼も得てきいろいろな福祉等の相談も受ける。

 

私に転機が訪れる。

そんな、ある3月末に「母子自立支援員と特別児童扶養手当(障害児の手当)の担当をしてくれへん」といわれる。

でも、母子自立支援員って嘱託の仕事で応募し、

面接しその人と雇用契約結ばれたのでは??

母子自立支援員ってなんだろからはじまった日々。

経験者などから、母子家庭のお母さんの相談を聞く仕事と知り

いろいろな相談を受けるたびに

調べたり、勉強続けているうち昼食をとる時間がないぐらい母子家庭の母や障害児の親がことあるごとに相談に訪れるようになった。

7年間相談員の仕事をする。

 

「人事異動から自分を見直す」

人事異動で人権推進室男女共同参画推進係(男女共同参画・女性問題・DVなど)に異動する。

苦手な事務仕事で、苦労する日々。

拍車をかけて、異動してすぐお昼前になると目が見えずらくなる。

パソコンの画面が見えない、1m先がぼやけて見えない

酷使してパソコンを見るため、頚椎に影響し腕と指先に激痛が……。

目は、黄斑円孔と網膜剥離を起こしていた。

手術を受けるが黄斑円孔がひどかったため再手術が必要で、目の状態が安定しないまま復職する。

慣れない仕事、腕と指先の激痛、目が安定しない……。

だんだん事務仕事が辛くなる。

また、そこには部署ぐるみのハラスメントもあり、

精神的にも辛くなり、精神科のドクターが休職の診断書を書きましたが

復帰ハラスメントが酷くなると人事課に相談すると受け取ってもらえず仕事を続けた。

そんな中

相談員の仕事をしているとき

同僚から、「あんたが関わると怒って来た人がニッコリ笑って帰るなあ。不思議な力がある」

上司から、「人との関わり方のノウハウを他の人に教えてくれへん」

としばしば言われてたことを思い出した。

そうだ「カウンセラーという心の仕事」をしたいと思うようになる。

 

思い切って長年続けた仕事を退職することにしました。

もちろん、ハラスメントのため長年の慰労を癒す送別会もありませんでした。

 

仕事と家事と子育ての両立と耐え抜いた結婚生活

お見合い結婚で。
まだ、保育士として正職員に合格して働き始めたころお見合いの話が来ました。
仕事が楽しくて、楽しくて仕方ない私でした。
相手は、10歳年上…。。まだ、結婚したくない。
でも、話しは、だんだん進み、相手には「嫌だ」と伝えた。
両親にも「嫌だ」と伝えた。でも、「見合いは、断ることが出来ん」仕方なく結婚しました。

見栄のための結婚です。
夫、夫の母、夫の母方の祖母の4人での生活が始まりました。
そこで、とんでもない光景が
なんと、夫は母親に魚の身をほぐしてもらいそれを美味しそうに食べているんです。
えっつ、もしかしたらマザコン。ショックでいっぱいでした。
私自身、しっくりいかなくなり家を事あるごとに飛び出す生活の始まりです。
そして、結婚1か月後の4月、年長児の担任をすることになりました。

一年間は、妊娠・出産はしたくないと思っていましたが、8月のある日妊娠に気がつきました。
これって、卒園式送りだせないという担任している子どもたちに申し訳ない無責任な人間なんだろうという気持ちで産休を迎えました

出産予定日の前日、外を大きな音で救急車が通るのです。
夜中の2時ごろ父からの電話があり、弟が24歳の若さで亡くなったことを告げられました。弟と対面し手を握ると冷たかったです。
弟は、もちろん私の出産を楽しみにしていました。
しかし、赤ちゃんは、予定日過ぎても全く生まれようともせず、陣痛促進剤で出産することになりましたが一向に生まれず赤ちゃんの心音が下がってしまい、病院の診察時間が終了を待ち帝王切開をしましたが、赤ちゃんは亡くなってしまいました。

 

産後休暇が終わり、保育士として仕事することが私の心の支えとなり、毎日園児の笑顔が私の心を和ませてくれました

 

1年半後、妊娠しましたが、病院にいくと今度は、「帝王切開で出産です」それ以上ドクターは、語りません。
納得できない私は、妹の同僚のお父さんである産婦人科にてセカンドオピニオンをすることに。
帝王切開をしたときの処置が悪かったようで私の子宮は、ぐちゃぐちゃで大学病院で出産するように勧められました。

いわるハイリスク妊婦だったんです。
そして、仕事中トイレに行くと出血が…。切迫流産で大学病院に入院しました。
そこでまた、「実は、赤ちゃんの頭が大きくて水頭症の疑いがあるんです。」とドクターに告げられました。
仕事柄、水頭症ということは、どういうことかすぐわかり、

ショックで気を紛らすため2人部屋だったんですがひとりの部屋だったので面会時間が終ってから担当のドクターが消灯時間まで話し相手になってくれたのです。。
せっかく、授かった命を無駄にしてはいけないと退院後、2週間に一回の脳神経外科医と産婦人科医の通院での診察が始まりました。

退院後、仕事は切迫流産ということで病休になり家のみの生活に。

それと同時に、治まるはずの悪阻が妊娠5か月なのに家にいるストレスを受けて酷くなり食べ物が受け付けなくなってしまいました。
妊娠8ヶ月目に心配していた赤ちゃんの頭のサイズは正常になり大丈夫ということを医師から告げられホット‼。
臨月になっても、予定日過ぎても全くに出産の気配がなくてまたかな…と。
出産予定日すぎて14日目昼間の診察で「今夜、産もうか。夜、陣痛が起こるよ。」と陣痛促進剤も使ってないし、半信半疑で夜を迎えました。
なんと、夜に陣痛が、自然分娩でなんと出産出来たのです。
無事、元気いっぱいの赤ちゃんを出産できたのですが、子宮がぐちゃぐちゃの為、胎盤が出てこなかったんです。

 

育児休暇は、今はどの職種にも認められていますが、
当時は、教師・保育士・看護師にしか認められてなく期間も1歳まででした。
子どもを9ヶ月で保育園に預けて仕事復帰しました。

上の子どもが2歳になり、次の子どもを妊娠しました。
妊娠と同時に悪阻との戦いが始まりと少量の出血を繰り返し、5ヶ月目に切迫流産でまたしても仕事を休むことに。
今度は、まったく食べるものを受け付けずで、切迫早産で入院するまで悪阻は続き入院と同時に悪阻は治まりました。
入院と同時に点滴投与の生活です。
妊娠38週で点滴を外してもらうと即、自然分娩でスピード出産。
でも、悪阻が酷かったため赤ちゃんは、小さく未熟児でした。

私と下の子が家にいるため、上の子の保育園の行き渋りが始まりました。
好きな「保育園に行きたくない」と車に乗せるまで大泣きです。

近所の人に虐待通報すると言われてしまいました。

毎朝が戦いで、保育園につくと何事もなかったように笑顔で保育室に入っていくのです。
これが、下の子が保育園に入園するまで続きました。

 

やっと落ち着いたころ、またしても今度は、子宮外妊娠。
夕方、お腹の辺りがプチと切れたような感じがすると同時に激痛走りました。

夫には伝えましたが取り合ってもらえず
一晩、激痛に耐えながら家で過ごし、明けて近くの産婦人科に行くとおなかの中は、血の海になっていました。

なんで、夜中に来なかったと怒られましたが…。

子育ても山あり谷ありです。
上の子は、アトピーと思春期早発症・下の子は、喘息持ち。
上の子のアトピーは、1歳の時に酷くなり皮膚科に通院し投与治療が始まりま
した。
6歳の夏ごろから、車のシートベルトの紐が胸にあたり痛いと言い出し、保育園の先生から「水遊び後、身体を洗っているとき○○ちゃん毎回胸が痛いと訴えるんです」と確かに少し、胸が大きい。
近くの病院に行っても何も分からず、下の子が身体の発達が緩やかなために買った本の中にこの症状が書いてありました。
もしかしてと大学病院に連れていくと小児慢性特定疾患の一つである思春期早発症でした。
月に1回の大学病院へ通院が始まりました。
もちろん、通院の日は、学校は休むことになります。
また、言葉の発達遅れていて、毎週、保育園年中から小学3年生まで言葉の教室に通級もしていました。

 

 

下の子は、喘息持ちで熱も出やすく保育園からの呼び出しも多く、

夜になると咳が激しく出て、昼間は、仕事しているので疲れていて抱っこをして夜を過ごしたこともしばしば。
上の子の通院時、学校への行き渋りがあり、朝は途中まで徒歩で送っていき、下校時間までに病院から帰宅し、通学路の途中まで迎えにいっていました。

 

 

子どもの状態が落ち着いたとき今度は、私に大病が
もともと、肩こりが酷く整形外科で痛み止めの注射や鍼治療していましたが良くならず、

ある時職場の上司である主任保育士に「業務命令で大きい病院に行って検査してきなさい」と言われ、

近くの総合病院にいくと脊髄空洞症とキアリ奇形といわれ第一頚椎を削除する手術を受けましたが、

一時的には表面的に良くなりましたが、脊髄空洞症は改善されず再び、症状が重くなり診断に対しての疑問がありネットで脊髄空洞症友の会と繋がり、

脊椎空洞症友の会にMRの画像を送ると脊髄空洞症の第一人者のドクターより電話がかかり、

「これは、キアリ奇形でないです。僕には、あなたの命を助けることはできません」を告げられました。

空洞症友の会の会長さんにお礼の電話をいれると対応できる病院をドクターは、

会長さんに伝えておいてくれました。
病院を移ることにして検査を受けるとやはりケアリ奇形でなく両性の脳腫瘍だったことが分かりました。

脳腫瘍の手術後、少し後遺症はあるもの経過はよく脊髄空洞症はなくなりました。

夫は、子育てを手伝って欲しときには、自分の母の手伝いを優先し手伝ってもらえず、
私のすること髪型服装に至るまですべて反論する、
私に車、しかも新車を買って欲しいというような人で

子どものころから欲しかったピアノを自分で働いたお給料でやっと買うことが出来き、

保育士の仕事の道具でもあるピアノを毎日のように売れ売れと。

もちろん、私の病気に対しても無関心なのか、知ろうともしない、歩くのも横に並んで歩くこともない、常に10メートル以上先を歩くような人でした。
やはり、私のストレス原因は、夫だったように思います。

精神的DVは、他人さんには目に見えないので分からない苦しみがあります。
子どもが、大きくなり家にいない生活と

仕事の退職で自分を何とか変えたいという思いで結婚生活に終止符をうちました。

 

ストレスがなくなると身体も違ってくるのです。

身体をよくするため、整体やジムに通ったり

心を整えるためにカウンセリングを受けました。

そのため精神の薬もいらなくなりましたよ。

身体だけよくなっても、心だけが良くなってもバランスが取れないのです。

心と身体は、一体なんです。

これが、私の血液検査の結果の移り変わりです。

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現在は、関西在住の子育て・夫婦関係などで悩まれている女性の方向けのカウンセラーとして日々活動している。

 

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